36歳で母を亡くした。残された時間に家族は何ができる?

令和元年9月19日に母を亡くしました。叔父や祖母などを亡くした経験はあったが、36歳で初めて「実の母」という存在を亡くしました。

亡くなる約1年程前から「いつか来るこの日」を覚悟していたせいだろうか?それとも守るべき子供達がいるせいだろうか?

今も心にポカンと穴が空き、毎日母を想ってはいるが、想像以上に普段の生活を送れている自分に驚いている。

母を亡くす1年前からの家族の過ごし方、今の想いを忘れないようにブログに残しておきます。

亡くなる1週間前まで

母は元々、気管支の病気を抱えていた。私が幼少の頃には薬を飲んでいたし、喘息発作が度々出ていたと思われる。

最終的に亡くなった病院での確定診断は平成18年だが、我々が知らなかっただけで本人はどこかしらの病院で投薬を受けながら、診断名も出ていたと思われる。

病気はゆっくりながら徐々に進行していた。

H26年から肺炎を起こしやすくなり、入院することが多くなる。

最初は1年に1回程度であった肺炎入院の間隔が徐々に狭くなってくる。

併せて血液中の酸素量も安定を保てず、酸素ボンベを使うようになった。

ところがH26年から酸素を使っていたハズがいつの間にか酸素を使っていない。

母は「最近は安定しているから」と言っていたが、後で父に聞いたところ、医療費節約のため自己判断で中止していたらしい。

結局H29年から酸素開始となった。

H30年3月

呼吸器リハビリ目的で入院。

退院はしたものの医師より「階段を上がる行為すら辞めたほうがよい」と指示あり、寝室を1階へ引っ越し。

平成30年8月

知り合いの医師の紹介を通じて、隣の県の国立医大に受診。

いわゆるセカンドオピニオン。

結果として診断結果の否定はなく、病気とうまく付き合うしかないと言われる。

平成30年9月

実家で過ごす母はだいぶ眠そうである。

とにかく痰を出すのに苦労し夜中もろくに眠れていない。

兄の嫁に聞くところ、食事の最中にもウトウトして椅子から転び落ちそうな場面も多々。

孫を連れて実家に帰ると母は笑顔を見せるが、自室では布団に座り込んでいる…。

平成30年9月中旬

ついに恐れていたことが起きた。

父より夜中に「お母さんの具合が悪く病院に連れてきた。すぐに来い。」と連絡ある。

すぐに病院に駆けつけるが母は既に人工呼吸器を口からハメられ処置中。

もちろん意識もない。

病院までは父の車で一緒に行ったし、病院内は自分で歩いていた。

ところが医師の診察が始まるや意識が飛んだ。

体内酸素の数値だけ見れば意識が飛んでいない方がおかしくない数値だが、日頃からその状態に慣れていたため、病院までも歩けた。病院に着いたことで安心し意識がなくなったのだろうと医師より説明受ける。

そこから肺炎治療開始。

3日もすれば意識が戻り始めた(人口呼吸器が口から入っている違和感を緩和させるために薬で眠らせていた)。

意識が戻ってからが口に呼吸器がハマり身動きも取れずに大変だったと思う。

状態も安定したところで、酸素チューブを鼻から吸う方法に戻す方法を試したが、どうしても体内の酸素濃度が保てずに、結果的に喉元に穴を開け、そこからマスク型で酸素を通す方法になった。

喉元に穴が開いているので、声を出すには指などで穴の蓋を閉じれば声を出せる。

いつもの母の声である。

そこからは身体面でもリハビリを始める。

正月には一時外泊も行い、平成31年2月に約5か月振りに自宅へ退院することができた。

家での生活

退院後、自分の咳で痰を出せない母は病院から吸引方法を教わり、鏡を見ながら自分で吸引を行う。

不便さはあるが、母の生活は元に戻りつつあった。

そして家事などの負担を負わせないよう家族みんなで協力し合った。

令和元年6月

徐々に体調が悪くなってくる。

今まで自分で吸引していたが、気道の奥にある痰は自分では苦しくて引くことができない。

もちろん訪問看護による吸引と呼吸器リハビリは毎日実施されているが、それでは追い付かず父・兄嫁・兄が訪問看護から方法を習い吸引する。

それでも素人なので上手くいかない…。

令和元年7月初旬

兄・兄嫁・私の3人で母へ延命意思の確認。

「もしも去年のように緊急搬送されて、人工呼吸器を付けなければいけない状態になったときはどうする?」と兄より重い質問をする。

「死ぬのは怖いが、意識もない植物人間のようになるようなら延命は望まない。そのことは私の日記の最初のページに書いてある。孫の結婚(一番年上で現在10歳)ぐらいは見たいが、それは無理かな・・・」

日頃から、苦しくて、きつくて、眠れなくて、一家の母という立場であるのに何も加勢ができない心の苦しみも併せ持つ母の重い言葉であった。

令和元年7月中旬

また恐れていたことが起きた。

私の嫁が朝から様子を伺いに行った時には、救急搬送の準備の最中であった。

すぐに私にも連絡が入り、すぐに病院に駆けつける。

私が病院に着いた時には、本人の意向とは別で人工呼吸器がついていた。

医師からの説明では肺炎治療のための装着と言われる。

その日のうちに母の意向が書いてある日記の存在を父に知らせる。父が見た後に私も見せてもらった。

「寝たきりになるための延命処置は行わないでほしい。ただ、苦しさや苦痛を取るための処置は行ってほしい。」と書いてある。

普段生活をしているだけでも呼吸苦を始めとする身体的苦しさと精神的苦しさと付き合いながら生きていることが理解できた。

父は「それでも生きていてほしい。病院で寝ているだけでも良いのでそれでも生きてほしい」と私達子供に語りかける。

治療開始直後は薬で眠らせれていたが、3日もすれば意思疎通ができ始める。

喉元から人工呼吸器装着となったので、口に挿入された去年と比べればいくらかストレスがないだろうが、大きな機械とチューブ繋がれて自由が奪われていることには変わりない。

7月下旬

人工呼吸器が外れ、酸素マスクを喉元に充てて酸素を通す状態に戻る。

8月上旬

再び血液中の酸素濃度が低下し、人工呼吸器を装着。

幸いにも数日で症状改善したため、母は近日中に人工呼吸器が外れることを楽しみにしている。

私の中でもこうやって繰り返しながらも母が生きていてくれれば良いのかもしれないと思い始めた。

8月中旬

医師から説明がある。

「こうやって呼吸器を外しては酸素低下を繰り返すのは、もうお母さんは呼吸器なしでないと生きていけないと評価するしかない。しかし人工呼吸器を長い期間付けていれば、肺に溜まっている痰が増殖しやすい環境となり肺炎リスクは高まるのは間違いない。今お母さんは人工呼吸器が外れるのを深く望んでいるし、装着時に治療が終わればまた外れることを伝えていたので一旦外します。でもこれが最後です。今回外す時に『次はない』ことを本人に伝えます。そして肺炎を繰り返すと同時に体もダメージを受け、(命が)年内は持たないだろう」と医師より。

家族は唖然として言葉を失った・・・。

そして母は医師から説明を受けて人工呼吸器を外した。

人工呼吸器が外れたことで自由に動けるようになったが、無理はしないように心掛けて、必要以上に動かないようにした。

言葉を発するときは一言一言を息を止めるようにして話す。

明らかに言葉を出すのにも負担がかかっている。

8月下旬

必要以上に言葉は出さずに筆談で行う。面会に行くと余計な体力を使わせそうであり、気が引ける・・・。

9月5日

やはり人工呼吸器が必要と判断されて再度装着と母よりLINEが来る・・・。

9月13日(金)

昼頃父から連絡がきた。

「昨夜21時頃に状態が悪くなり、病院から呼ばれた。肺炎を起こしている。今すぐに・・・というわけではないが、起きているのも苦しい状態なのでモルヒネを使った方がよいと医師から言われた。実際にはまだ使っていない。昨日は確かに苦しそうだったが、今日の朝面会に行ったときはそこまで苦しくないと本人が言っている。」

仕事を昼で切り上げて病院に行く。

医師より同じように説明を受けたが、「モルヒネを使った方が本人は眠っている状態なので苦痛はない。そして今の状態であれば使うことを勧める。」と言われた。

その方法が母の意志に反していないと考え、モルヒネをお願いした。

効果が現れるまでしばらく時間がかかる。

母は「遺影の写真には祖母の米寿の祝いで撮った集合写真の私を使ってほしい。それしか笑っている写真はないから・・・」と筆談する。

遺影の写真ではないが、母の笑っている写真は他にもたくさんあり、私のGoogleフォトの人物検索で母の写真を見せて、懐かしそうに写真を見ていた。

それが母とまともに会話(筆談)できたのは最後である。

9月14日(土)

入学祝を用意してあると父から聞いていたので、朝から来年度入学予定の実家の孫と私の次男を連れて病院に行く。

幸いにも私の次男は既にランドセルを購入していたので、長男の小学校帽子とランドセルをからった二人の孫の姿を見せた。

まだ母には意識があり母の手から二人の孫に入学祝いを渡してもらった。

昼から再度面会に行く。声をかければ目を開けるが、ほぼほぼ眠っている。きつそうではないので安心するが食事も水分も全く摂れていない。

そのまま夜勤帯に入り、夜勤の看護師さんに尋ねる。

私「口を開け放しで、水分も摂っていないので口の中まで乾いている。大丈夫だろうか?」

看護師「食事も摂っていないので唾液が減っている。口腔ジェルを持ってきてもらえれば助かる。」

すぐに薬局で購入し、対応してもらった。

父は病室の片隅や待合室を使って病院に泊まる日々が始まる。

9月15日(日)

母に変わりはないがずっと眠っているので食事も水分も摂れていない。

「このままでは弱る一方では?食事が摂れる程度にモルヒネの量を減らした方がよいのでは?」父が話す。

素人なりの考えではあるが、少しでも母が元気を取り戻せるように想ったのだろう。

そして夕方よりモルヒネ量を半量に減らしてもらった。

9月16日(月曜祝日)

父と10時より付添い交代する。

父に聞いたところ、朝はしっかり目が覚めていた。

私が交代した頃には傾眠しているが、声をかければ全く目を開けないわけではない。

私は若いころハチャメチャな行動をして世間様に迷惑ばかりかけて母は謝ってばかりだった。

その中でも私の心にいつまでも引きづっている言動があった事を母に伝える。

「お母さん、10年頃前に、お母さんから『あんたは喘息持っているんだからタバコは辞めないと!』と言われ、それに逆上し『俺も好きで弱い体に生まれたんじゃない!』ってひどい言葉を言ったよね。あの時は本当にいけない事を言った。親になってお母さんの気持ちが分かった。あのときはゴメン・・・」と謝った。

母はびっくりしたような顔で私の顔を見つめる。それでも眠いのだろうか?

何とも言えない私はつい、「それだけだよ、寝ていいよ。」と言うと母はまた目を閉じた。

どこまで真意が伝わったかは分からないが、ずっと心に引っかかっていた事が少しスッキリした。

そこから夕方にかけて母は、寝て起きてを繰り返し、起きている時間は苦痛表情を見せている。

その表情に私は辛く目を背ける?しかなかった。それくらい辛そうであった。

私は夕方、父に電話をする。

「今の母の状況を見ていると辛い。モルヒネを元に戻し、眠らせた方が良いのではないか?」

父は「すぐに行く」と言い電話を切った。

丁度同じタイミングで本日の夜勤入りの看護師と当直医師がやってきた。

医師はモルヒネ量を元に戻した方が良いだろうと推奨する。

確かに素人の目から見ても母が苦しそうなのが分かる。

「先生、すぐに父を呼びますのでもう少し待ってください。」

もう一度、医師から言われた事を整理して父に連絡する。

父も私からの連絡だけでも事の深刻な状態であるのが分かったのだろう。

父は病院に着くと医師と会う前に病室に寄り、母に問う。

「分かる範囲でいいから答えて。体はきついかい?」

母はどこまで理解しているか分からないが、頷く。

「きつくないようにするには、お母さんが深~く眠れる薬を入れてもらえば楽になるらしい。だけど、もしかして話もできないかもしれない。それでもやる?」

この質問に母はどのように答えたのか私には見えなかった。

が、父が言った回答は

「分かった。仕方ない。辛いけど俺が我慢する。」と答えた。

母が頷いたのか不明だが、父なりに母の苦痛表情を悟って自分の思いを押し殺したのだろう。

それから医師より話を聞く。

「実は私の父は大腸癌で他界しました。私も御家族と同じように、もう一度父と会話をしたかったのでモルヒネ量を減らしたことがあります。最後に父が話した言葉は『苦しい・・・』でした。今お母さんは生き地獄にいるような状態だと思います。」と医師より説明。

父は先ほどの母との病室でのやり取りを医師に話す。

「そうですか。でもそれで本人の意志が分かったのは重要なことです。」と医師より言われた。

もうモルヒネ量を増やして本人の苦痛を取るしかないことは頭では理解している。

分かってはいる。分かってはいるが・・・。それでも、もうそのようにしてもらうしかなかった・・・。

父は仕事に出ている長男に事情を電話する。

おそらく、起きている母と接するのは最後だから面会に来るように伝えたのだろう。

しばらくすると兄がやってきた。

今日は敬老の日で孫が地域行事で踊りに参加。撮りたてホヤホヤの状態のビデオを兄が持ってきた。そのままテレビに接続し母に見せる。

母は何も発しないが驚くほどテレビを見ている。

何か想う事があったのか、少し興奮したのだろう。呼吸が苦しくなり看護師さんに痰を引いてもらう。

その後もしばらくビデオを見てもらう。

これが親子で過ごした最後の時間となった。

敬老会の踊りが終わった頃には母はまた眠りに入っていた。

モルヒネの説明があった時に、医師と看護師から「無理はしないように、私達が看護しますから」と言われた事もあり、今日から昼間だけの付き添いとして夜は全員家に帰るようにした。

9月17日(火)

仕事が終わってから面会に行く。変わりないようだ。

母に呼び掛けても、目を開けることもない。

面会時間終了のアナウンスと共に父も家に帰る。

9月18日(水)

仕事が終わってから面会に行く。少し熱があるらしいが、医師から特別な説明はない。

父は胸騒ぎがしたのか、夜は付き添うと言い、病院に残った。

9月19日(木)

父は仕事があり、6時に病院を出た。

朝までに父から連絡がなかったことに安心した。

私はいつものように仕事に出かけた。

10時15分、病院から電話がかかる。

看護師:「お父様には伝えたが、病院に来てほしい!」

私:「えっ、大丈夫なんですよね?」

看護師:「すぐに来てください!」

私は上司に事情を説明し、すぐに病院に駆け付ける(職場から病院まで車で1時間)。

と同時に兄に電話。

気が動転していて、間違って母の携帯に電話していた(汗)

再度兄に電話。兄の職場は電話を持ち込めないので繋がらない。

兄嫁に電話し会社に電話してもらう。

次に私の嫁に電話。

母の状況は分からないが、行けるようであればすぐに病院に行ってほしい事を伝える。

途中、父に電話。今日は大事な会議とは聞いていた。もしやと思い、電話する。

応答はしないが、電話先から会議の最中のような声が聞こえる。

11時15分 病院に着いた。

病室ドアを開けると真正面にポジションを構えていた心電図がまっすぐの横線を打っている。

「・・・? ・・・?」

一瞬の視線のハズだったが、周りがスローモーションになり、波打っていない機械を不思議に眺めた。

我に帰ると、母のベッド横の椅子に私の妻が座り泣いている。

よく見ると兄も反対側に座っている。

私の妻:「亡くなっているって。誰も間に合わなかった・・・」

母の心臓は止まっているが、人工呼吸器で肺に酸素だけは送り続けられ、その振動で体は動いている。

母に触ると体がまだ温かい。

11時25分 父が到着。

父もすぐに状況を理解できたようだ。

11時30分 医師より死亡確認。

医師「恐らく10時30分頃に亡くなられたと思われます。」

父「最後は苦しかったのですか?」

医師「恐らく苦しさはなかったと思います。」

その後は死後の処置をしてもらい、13:30に病院に迎えがきた。

母が1年の半分を過ごした病院生活が終わった。

兄は入院中の祖母に事情を説明に行き、そのまま祖母は一時外泊で帰ってきた。

昔は母と折り合いが悪かった祖母も泣いている。

南無阿弥陀仏に興味がない我々は祖母が言うがままにお坊さんが来る準備をした。

夕方お坊さんが来て南無阿弥陀仏が始まる。

近所の人たちもお参りにくる。

葬儀場と打ち合わせで通夜は9月21日(土)に決まった。

それまでに葬儀社より準備する内容を言われた。

家族としても少しでも母に家に居てほしかったので、通夜の日程が遅くなるのは安心した。

まずは母がいつも着ていた羽織物を見つけた。

寒さに弱い母に、これだけは天国に絶対に持たせたかったので、ひとまず安心した。

9月20日(金)

朝から実家に帰る。母は笑っているように眠っている。

午前中は叔母と通夜と葬儀の日の夕食出前を考えた。

昼からは母の遺言通り、遺影の写真の打ち合わせに行く。

葬儀社指定の写真館が、祖母の米寿祝を撮ってもらった写真館だったので丁度良かった。

集合写真だったので、母は小さく映っており、引き伸ばしに疑問を感じさせたが、プロのカメラマンに撮ってもらったデータが残っていたため、引き伸ばした遺影は綺麗な物だった。

平行してスライドショーで使う写真を探す。

写真が沢山あり、父と兄弟で選定に一悩みする。

9月21日(土)

遠方に住んでいる母の姉と父の弟夫婦が帰ってきた。やはり再会に涙しかない。

14時 葬儀社がやってきて、棺桶に母を入れる。みんなで力を合わせて入れる。

母の思い出の遺品も一緒に入れる。

涙が止まらない・・・。

15時 出棺。祖母一時退院時間は過ぎているが、出棺まで残っていてくれた。

出棺時近所の人も集まってきた。

葬儀社:「通夜会場まで行くにあたり、思い出の場所などあれば寄りますが?」

父の車の誘導のもとで、孫との思い出の近所の場所、私の家、私の長男が通っている小学校などを通って、会場まで行ってもらった。

19時 通夜が始まる。

知り合いから声をかけてもらう度にいちいち涙が出る。

母の友人らもみんな泣いていた。

そんな覚えしかない。

ただ一つ失敗点が母の思い出のスライドショーのBGM。

テレサテンの「時の流れに身をまかせ」を流す予定で考えていたが、会場にその歌がなかった。急遽違う歌を流したが、私には何の思い出もないし、一体誰の歌だったんだろう(笑)

その日は2時頃まで親戚が残り、会場で酒を飲んだ。

数年振りに母と一つ屋根の下で最後の夜を過ごした。

9月22日(日)

昨日、泣きすぎたのか、2WEEKの使い始めたばかりのコンタクトが真っ白に濁り使い物にならず、新しいコンタクトを開ける。

朝からテレサテンのBGMをレンタルに行き、葬儀社に渡す。

13時 葬儀開始。母に申し訳ないが南無阿弥陀仏の間は眠くて仕方なかった(涙)

儀式や弔問など一通り終え、棺桶を閉める最後の瞬間が来た。

みんなで母を花で埋め尽くす。母はガーデニングが趣味だったのでとても喜んでいるだろう。

一方で、私は母の頭元に居座る。

もうこれで母を触るのは最後である。顔しか触る所がないが、子供達を片手に抱っこしてずっと母の顔を触っていた。そして泣いていた・・・。

そして火葬場に出かける前に来客者へお礼の挨拶。

通夜の挨拶は兄。葬儀の喪主挨拶は父。そしてお礼の挨拶は私の番だ。

父には前もって、私は絶対に泣いて言葉がでないので挨拶は出来ない事を伝えていたが、父は3回の挨拶場面があり3人言う者がいるのだからと私に言わせた。

お礼の挨拶は簡単に例文通りの事を言えばいいのだが、やはりそれでも涙が止まらず、言葉に詰まってしまった。

火葬場に着いたらまた南無阿弥陀仏を終え、本当に本当に最後の別れの時がきた。

棺は閉じているのでガラス越にしか母を見れない。

私はいつまでもいつまでも母を見ている。

父は早々とお別れを終えて、棺より距離を置く(多分これ以上見ていたら取り乱すかもしれなかったのかもしれない)。

棺が焼却炉に入った。

父がボタンを押せば火が着くが、父はなかなか押せないでいる。終いには頭を柱にぶつけ始める。

我々兄弟もボタンを一緒に押そうとし、一歩前に出た時に、父はボタンを押した。

子供達に押させるのを悪く思ったのか?夫としてのケジメだったのか?

2時間弱で火葬が済み、骨となった母と再会した。

なんとも言えない気持ちだったが、子供達と丁寧に骨を拾って骨壺に入れた。

9月23日(月祝日)

前日までに泣きすぎて目が異常なほどに腫れている。

昼過ぎに実家に帰った。特に何もしていないが、葬儀に来れなかった人が参りに来るので、その相手をしていた。

遺影にしか母の姿がないので不思議感しかない。

9月24日(火)

10時に実家に帰る。

やはり遺影にしか母の姿はない・・・。いくら遺影を見ても飽きない。

でも見続けると色々考えて涙が出そうだ。

今日は初七日。

夕方より南無阿弥陀仏が始まる。

10月5日(土)

毎日✖2、母の事を考えます。

仕事復帰もしました。ブログも再開しようとしています。

母がいない中で通常の生活に戻りつつある自分に罪悪感を感じます。

泣きそうだからあまり遺影を見ないようにしているのかもしれません。

毎日泣かないのは子供がいるからかもしれません。

ストレスのせいか、自律神経バランスが崩れているようで冷え性が悪化しました。

ちゃんとした日々を送らないと母に心配かけると思わなくてはいけませんね。

母を亡くし1カ月、考えること

最期を看取れず一人で逝かせた事に関してだけは、ハッキリ言って後悔しています。

父は最終夜を付き添っていなかったら一生後悔していたと言っているが、父の本音はどうだろう??

病院側にしか出来ないことがあるが、私達家族にしか出来ないことがある。

あの時、私達が意見を曲げずに、誰かが付き添っていれば、もう少し違った形の最期を迎えれたかもしれないと後悔しています。

ただ、私の場合は「生きようとする母」と「弱っていく母」を見続けて、応援する一方で「覚悟」をする時間が持てたので、覚悟に向けた「母との接し方」ができたので、ひどく悔いが残っているわけではありません。

事故死などと違い、母が時間をくれました。

もしも同じように愛する誰かの死と向き合っている人がいるのなら、後悔しないように想いのままに動いた方がいいと思います。

そして誰にでもある「いつか来る、その日」のために、毎日を後悔しないように生きましょう。

11月4日(月祝)

四九日。自宅でお坊さんを招いて南無阿弥陀仏。

近所の方や親戚を招いて、食事会?。

母の生前の思い出の写真を見て、みんな泣いている。

毎週火曜日に七日、七日のお参りしていたのも今日で終了。それも少し寂しい気がする。

母という実物がいなくなり、現在は遺影と遺骨しか残されていない。

年末には納骨が予定されている。いよいよ遺影しか残らない時が近づいている。

12月22日(日)

早いもので百箇日(ひゃっかにち)がきた。

正確には母の命日より94日であるが、年末にも差し掛かり本日供養となる。

納骨まで終わらせる予定だったが、雨のため中止。

南無阿弥陀仏を終わらせると、仏壇の棚なども片付けて、母が亡くなる前の仏間に戻った。

前と変わった事と言えば、ご先祖さんの遺影の横に母の遺影が増えたことか。

母を亡くし、早いもので約3か月が過ぎた・・・。

今の心境は、いくら時間が経っても母のことは毎日思い出す。

そして母がいなくても、不思議と世界は回っている。

「何を言っている?そんなの当たり前じゃないか?」と思われるかもしれない。

半年前、1年前の今日は母は生きていた。あのときに、半年後、1年後に母が居なくなっていると予想できただろうか?

「何を言っている。そんなこと予想すること自体がよく分からない」と思われるかもしれない。

本当に不思議なことばかり考えるんですよね。身内を亡くすってのはこんな感じなんだろうか?

納骨は来週予定。雨が降らなければよいが・・・。

12月29日(日)

朝の9時より実家に帰る。

先週納骨が出来なかったための続きだ。

20~30年振りに墓参りにきた。

既に墓には母の名前や命日などが刻まれ、石屋さんに磨かれている。

納骨前に母の骨壺の中身を確認した。

「骨」になっているのを改めて確認したのだ。

「今更?」と思われるかもしれないが、実家に帰る度に骨壺が気になっていたのだが、母が骨になっている事実に目を背けたくて、気にしないフリをしていた。

しかし今日が最後のチャンス。

これを逃すと骨の姿の母とも会えず、もう遺影写真しかない。

そして現実を確認したら、やはり母の姿は小さくなった骨であった。

とりあえず触って、感謝の気持ちを述べて、蓋を閉じた。

納骨を終えて実家に帰ると、もう仏間は母の遺影写真が増えただけのいつもの仏間に戻ってしまった・・・。

もうすぐ正月。

昨年の今頃は母が正月の一時退院に向けた準備をしていたっけ・・・。

令和2年1月2日

今日からユニバーサルスタジオへ、父・長男の子二人・私の家族5人で旅行にでかけてきます。

実は母が生前からやっていた500円貯金が満杯に。

家族で旅行にいくために始めたらしいが、入院後は父が跡をついでくれた。

母の分も楽しんできます。

令和2年8月15日

初盆のため今週はずっと仕事休み。

実は今年の4月に実家の祖母も亡くし、母と祖母2人の初盆なのだ。

でっかい鐘楼船を作って海に流した。

令和2年9月19日

早かったのか、長かったのか、色んな事があり、色んなことを考えて、1年が過ぎた。

今日は母の一周忌。

11時から和尚さんが南無阿弥陀仏。

足がしびれているのを母が笑っている。

コロナ禍だから母の友人や親せきなど最小限の人数でお食事会にいった。

実家に帰っても母がいないのが未だに不思議でたまらない。

ここ数日、『1年前のあの日はあんなことがあった』『1年前のあの日は母はこんな状態だった』って考えていた。

亡くなる数日前は危篤状態なんですよね。9月16日ころからかな?

医者も説明しているはずなんですよ。

今考えれば明らかに危篤状態だし、だれの目から見てもそんな状態なんです。

でもその時は危篤状態なんて思っていなかった。

9月19日に母が死ぬなんて思ってなかったもんな~。

ここ数日、そんなことを考えていました。

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